アンジ・ポステコグルー – トッテナムの重鎮となりうるギリシャからやってきた少年

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27歳で怪我をしてサッカー選手を引退した。あの偉大なるフェレンツ・プスカスが監督を務めオーストラリア選手権を制したが、自分の将来は監督業にあると、アンジはいつも心の中で思っていた。

しかし、不安はあった。それは、またしても父親の話に戻る。もし、監督として成功できなかったらどうなるのか?失敗したら?それが、父との絆を深めたのだ。

「そうなったら父と私はどうなるのだろう?父の期待にどう応えたらよいのだろうか?」

だが、そんな心配は無用だった。彼はサウス・メルボルンの監督として、誰もが無理だと言っていた2度のオーストラリア選手権を制覇した。

父親のジムは、感情を表に出したがらない古いタイプの人間なので、面と向かって言うことはほとんどなかったが、自分の息子がどれほど誇らしかったかを仲間に話していた。そして、話しをアンジも間接的に耳にする。それで十分だった。

彼は、オーストラリア代表のユースで監督を務めたが、そこではまったく上手く行かなかった。クビになり、ギリシャの3部リーグで仕事を探した後、オーストラリアに戻ったが、職を見つけることはできなかった。辛い時代だった。

妻のジョージアと2人の息子たち

妻のジョージアと一緒に、6〜8ヶ月間、義母の家に身を寄せてしのいだ。今、奥さんと息子さんたちと一緒にセルティックでのタイトル獲得を祝っている姿を見ると、彼が今の地位を築くまでに様々なことを経験したことがわかるだろう。

2009年、ブリスベン・ロアーは彼を監督として迎え入れ、オーストラリア・サッカー史上最高と評されるチームを作り上げた。速くて激しい、決して止まらないサッカー。その哲学は、2021年のグラスゴーが始まりではなかった。

2011年と2012年にリーグを制し、メルボルン・ビクトリー、そしてサッカルーズへと活躍の場を移し、代表チームが2014年にワールドカップに出場するのに貢献し、2015年にはアジア・カップで優勝、チームを再建して2018年に再びワールドカップに出場させた。

そこで日本が手招きした。横浜FマリノスでJリーグを制しただけでなく、次の仕事であるセルティックで見事に役立つことになる選手マーケットについて、世界中のあらゆる知識を吸収したのだ。

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