厳しい想い、ユースへの信頼、常にヒーローであること、精根尽きるまでのハードワーク。新スタジアムに移ろうとするトッテナム。ポチェッティーノは如何にしてトッテナムをプレミアリーグの強豪に変貌させたか。
- ポチェッティーノはスパーズでの功績によりフットボール界で最も注目される監督の一人に
- ポチェッティーノのメソッドでトッテナムはプレミアリーグのトップ6の真の脅威となった
- アルゼンチンで身につけた流儀はイングランドで成功する指導者の原点としては稀有だろう
- 最も影響を与えたのはマルセロ・ビエルサだが、真のキー・マンはビエルサの右腕たる人物だ
この物語は2013年1月、マウリシオ・ポチェッティーノのイングランドでのフットボール界における第一夜に遡る。エバートンのコーチ陣は相対するサウサンプトンの3人を怪訝な面落ちで見ていた。彼らのことは誰も詳しくは知らなかった。ヘスス・ペレス、ミキ・ダゴスティーノ、トニ・ヒメネスの3人だ。実際のところ、スペインやアルゼンチンのフットボール界に精通している者かエスパニョ―ルを仔細に追っている者でなければこの3人のことを知らなかっただろう。
その夜、デイビッド・モイーズのもとで働いていたコーチ陣は全員が英国出身者だった。確かに何か脅かすものがあった。監督が英国人ではなかっただけでなく、その少し前に国際化の流れの影響で英国人監督のナイジェル・アトキンソンが更迭されたサウサンプトンでは、そのアシスタントのコーチたちもまた一掃されていたのだ。
その皮肉な物語の結末はいまや明らかである。ギャレス・サウスゲートとアシスタント・コーチのスティーブ・ホーランドを除いて、この7年間でポチェッティーノとそのスタッフたち以上にイングランドのフットボール界に貢献した者はいないと言っても過言ではない。
ポチェッティーノが如何にトッテナムを、悲惨なほどの予算の中でプレミアリーグの超強豪チームに変貌させたのか。同時にイングランド代表をも、である。それを知るにはまず彼という人物を知る必要がある。
イングランドが最初に彼に注目したのは2002年のことだ。ポチェッティーノがイングランドのフットボールから最も隔たれた立場にいたときである。後ろの髪を長く伸ばした外見は、当時のアルゼンチンのセンターバックを務める男の特徴となっていた。
男はアルゼンチン中部に広がる草原地帯パンパの出身で、サンタフェ州のマーフィーの農家の息子である。ロザリオの南西約200マイル(320km)にある地方の片田舎で、19世紀にアイルランドからの移民たちによって作られた町である。2002年のその日、男がイングランドに相対したその試合は、ワールドカップ本戦で最も注目を集めたカードの一つとなった。その試合を紹介するのに、日本の放送局はフォークランド紛争の記録を引用していた。ポチェッティーノはアルゼンチン代表のマルセロ・ビエルサ監督の一番弟子であった。
アルゼンチンの望みは、1998年のフランス大会に続いて植民地時代の仇敵イングランドから勝利を得ることであった。
明らかにそれは、ビエルサにとってもポチェッティーノにとっても上手く行かなかった。マイケル・オーウェンにエリア内でフェイントを仕掛けられたポチェッティーノは足を出し、その次の瞬間にオーウェンは倒れた。「確かにあれはダイブだった。彼には触れてもいない!」と、常にポチェッティーノは主張している。リプレイによれば確かにほとんど接触はなかった。だが、デイビッド・ベッカムがペナルティを決め、アルゼンチンは面目を失って帰国することとなる。ノックアウト・ステージに進むことすらできなかったのだ。