アーセナルの“ノースロンドン侵略”と“疑惑の昇格” – ノースロンドン・ダービー因縁の歴史【第1部】

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歴史上初となるイングランド以外でのノースロンドン・ダービーが、7/31に香港の啓徳体育園(カイタック・スポーツパーク)で開催される。日本のファンも注目するこのダービーを前に、ノースロンドン・ダービーについてスパーズ・ファンの目線で4部に分けて紹介する第1部。

ノースロンドン・ダービーは、トッテナム・ホットスパーとアーセナルの一戦として、イングランド屈指の因縁対決として知られている。だがそのライバル関係が、もともと地域性だけではなく、「裏切り」「陰謀」「侵略」といった激しい感情を孕む歴史によって深く根付いていることは、意外と知られていない。

両クラブの因縁は、単なる地理的な近接や試合結果の積み重ねではなく、1913年と1919年という2つの決定的な出来事から始まった。

この二重の“事件”が、ノースロンドン・ダービーをただの近隣対決ではない、“感情の爆発”へと育て上げたのだ。


1913年:アーセナルがノースロンドンに侵略

アーセナルは創設当初、ロンドン南東部のウーリッジに本拠を置いていた。軍需工場の労働者クラブとして誕生した「ロイヤル・アーセナル(Royal Arsenal)」は、後にプロ化し、「ウーリッジ・アーセナル」として1893年にフットボールリーグに参加。しかし、ウーリッジは当時のロンドン中心部からも離れており、アクセスが非常に悪く、観客動員に苦しんでいた。

経営難にあえいでいたアーセナルを買収した実業家ヘンリー・ノリスは、クラブの生き残りを図るべく「より観客が集まる場所」への移転を模索する。彼が選んだのは、トッテナム・ホットスパーの本拠地であるホワイトハート・レーンのすぐ南、ハイベリーだった。1913年、アーセナルはスタジアムをハイベリーに移し、以後「アーセナルFC」として新たな歴史を歩み始める。

しかし、この移転はトッテナム・ファンにとっては“侵略”としか映らなかった。当時すでにノースロンドンに根付いていたスパーズからすれば、「他所者が自分たちの地元に入り込み、ファンベースを脅かす」存在になった。クラブの競争だけでなく、地元コミュニティを巡る“縄張り争い”として緊張感は高まり、これがノースロンドン・ダービーの因縁の始まりとなった。

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