1960年のFAユース・カップで優勝したチェルシーのメンバーであるテリーは、1960年8月にプロ契約を結び、そのシーズンの終了時にもユース・カップを保持しました。1963年と1964年にU-23キャップとイングランド代表キャップを記録し、1965/66シーズンにはチェルシーのリーグ・カップ優勝にも貢献しました。
テリーは1966年5月9日にスパーズと契約し、同日ブラックバーンでスパーズ・デビューを果たしました。12ヶ月後、初めてFAカップ決勝で古巣チェルシーの元チームメイトたちと対戦することになりました。1969年6月にQPRに移籍し、1974/75シーズンにクリスタルパレスでの選手キャリアを終え、その後、指導者や経営者としての長いキャリアをスタートしています。
彼はわずか4年でパレスを3部リーグから1部リーグに導き、その後QPRに戻って1982年のFAカップ決勝に導きましたが、スパーズとの再試合の末に敗れました。その1年後には1部リーグに昇格は決めました。1984年、ラ・リーガの強豪バルセロナはヴェナブルスをカンプ・ノウの指揮官として招聘し、初年度から国内タイトルに導き、1986年にはヨーロピアン・カップ決勝に進出しましたが、PK戦でルーマニアのステアウア・ブカレストに敗れています。

テリーは監督としてスパーズに戻り、最初は困難な時期を経ましたが、マバット、ガザ、リネカーというイングランド代表の主力たちとともに1989/90シーズンを3位で終え、1991年には準決勝でアーセナルを破って記憶に残るFAカップ制覇を果たしました。ガナーズのダブル優勝を阻止しまして進んだ決勝では、その試合の下馬評を覆してウェンブリーでフォレストを破っています。
スパーズを去った後のヴェナブルスは、イングランド代表を率いてユーロ96に挑み、魅力的なパフォーマンスで準決勝に進むも、ドイツ戦で痛ましい敗戦によって栄光への道は絶たれました。オーストラリア、再びパレス、ミドルズブラ、リーズ・ユナイテッドと指導者として過ごした後、彼の最後の監督キャリアは、2006年から2007年にかけてスティーブ・マクラーレンのアシスタントとして過ごしたスリー・ライオンズでした。
私たちはこの悲しい時に際しに、テリーの妻イベット、彼の親しい家族や友人たちに心からお悔やみを申し上げます。
追悼の意を込めて、今日午後のプレミアリーグ、アストンヴィラ戦では、キックオフ前に1分間拍手を送り、選手たちは黒い腕章を着用します。
