プレミアリーグに向かう運命を予言したメルボルンにあるアンジ・ポステコグルーの壁画

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football.londonは、若きアンジ・ポステコグルーの足跡をたどって、チャペル・ストリートとマルバーン・ロードに沿って、プラーラン高校に通うために毎日必要だったであろう1.5マイル弱の道のりを歩いた。

ポステコグルーが通っていた頃から学校は移転したが、校章だけでなく銘板もまだ歩道に残っており、そのモットーである「より偉大なものへ(To greater things)」を記した校章は、この卒業生にぴったりであろう。現在、この場所にはオロン・ローマニス保護区があり、クリケットとラグビーができるグラウンドとコミュニティ・センターが置かれている。

1970年代に遡ると、この場所で12歳のアンジ・ポステコグルーが率いたフットボール・チームが設立された。

オーストラリアの他の地域と同様にメルボルンでもオーストラリアン・フットボールやクリケット、ラグビーが人気スポーツの中心を占めていたが、海外からの移民たちは、新しい故郷で「サッカー」と呼ばれるスポーツを再開したいと考えていた。

父親のディミトリス(愛称はジム)とアンジの絆は、主に共通のフットボールへの愛情と、早朝のイングランドでの試合や、プレミアリーグの名物番組「Match of the Day」をテレビで見ていたことに由来しており、それが12歳の少年であったアンジをプラーラン高校でこの競技に没頭しはじめる動機となった。

実際、若いアンジはフットボールに夢中になり、手に入るフットボールの本や雑誌を読みあさり、その年齢にもかかわらず、有名な選手やコーチの戦略を研究していた。彼は、父親が仕事をしていたり、眠っているときを除けば、できる限り父親とフットボールの試合について話し合い、議論し、2人で現地に赴いて試合を観戦するだけでなく、海外の試合もテレビやビデオで観戦した。

ポステコグルーのフットボール哲学は、この競技の偉人たちからではなく、フットボールについての父親の金言である「ボールを保持しろ」からインスピレーションを得ている。今日に至るまで、この言葉はオーストラリア人指揮官が指導するチームについて知るべきすべてを物語っているだろう。

ジムが別のことに没頭しているとき、幼いアンジは父親の友人たちにフットボールについて質問し、この競技についてのアイデアを広げた。彼はすでにサウス・メルボルン・ヘラスのユースチームで選手としてプレーしており、後に同クラブでフェレンツ・プスカシュの下でトップレベルでもプレーし、監督を務めることになる。ゆえに、高校で彼がフットボール・チームを設立しようとするのも当然だった。

「私は12歳のときに理事会のサポートを得たんです!学校のオージー・ルールの方は有名なチームでした。私とそこにいた他の数人の移民の子供たちは、サッカーがしたいと言ったんですよ。彼らは問題ないと言って、この箱を私たちにくれました」

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