地球上で最大のフットボールの祭典、2026 FIFAワールドカップの開幕が目前に迫っている。
すべては6月11日(木)、メキシコシティの有名なアステカ(現在はエスタディオ・バノルテとして知られる)で、共同開催国のメキシコが南アフリカを迎え撃つ一戦からスタートする。
アメリカとカナダを加えた共同開催となる今大会は、1930年に第1回大会が開催されて以来、23回目のワールドカップとなる。 この夏のフットボールの祭典に向けてビルドアップしていくにあたり、最高の舞台に登場したスパーズの選手たちの歴史を振り返ってみよう。
スティーブ・アーチボルド(スコットランド)
グループ6で行われた1982年ワールドカップ初戦のニュージーランド戦でベンチスタートとなったスティーブは、マラガでの一戦の53分に、後にスパーズに加入するアラン・ブラジルに代わってピッチに入り、本大会でゴールを記録した史上4人目のスパーズの選手となった。
ジョック・スタイン率いるチーム(ケニー・ダルグリッシュ、グレアム・スーネス、アラン・ハンセン、ダニー・マクグレインらが在籍)は3-0とリードを奪ったが、ニュージーランドが反撃して3-2とした。ジョン・ロバートソンが4-2とし、残り10分でアーチボルドがネットを揺らして大勝を締めくくった。
アーチボルドのこの短い出場での活躍は、セビリアで行われたブラジルとの大一番で先発の座を勝ち取るのに十分だった。スコットランドが先制したものの、ジーコ、ソクラテス、エデル、ファルカンらがピッチを彩るブラジルが逆転して4-1で勝利した。アーチボルドは90分間フル出場を果たした。

スティーブは勝ち進むために勝利が必要だったソビエト戦でも先発したが、試合は2-2の引き分けに終わった。これによりスコットランドとアーチボルドのグループ突破の夢は絶たれ、得失点差でソビエトを下回りグループ3位で大会を終えた。
1980年にアバディーンからスパーズに加入したアーチボルドは、最初のシーズンとなった1980/81シーズンの旧ファーストディビジョンで得点王タイに輝いた。ガース・クルックスと強力なパートナーシップを築き、1981年と1982年のFAカップ連覇に貢献した。189試合に出場して77ゴールを記録したスティーブは、1984年の夏にバルセロナへ移籍するまでの4年間で、4つのカップ戦の決勝(1982年リーグカップ、1984年UEFAカップなど)でプレーした。
オジー・アルディレス(アルゼンチン)
1978年の夏にリッキー・ビジャと共にスパーズに加入する直前に世界王者となっていたオジー・アルディレスは、若きディエゴ・マラドーナが世界の舞台に登場し、スペイン大会でも好成績が期待されたアルゼンチン代表のメンバーに名を連ねていた。
このミッドフィールダーは初戦に先発した。アルゼンチン協会がアルファベット順で背番号を割り当てたため、異例となる背番号1をアルディレスは着用していた。しかし、ベルギーに0-1で敗れるという予想外の展開となり、良いスタートとはならなかった。

しかし、続くグループステージのハンガリー戦では4-1で勝利し、アルディレスは自身のキャリアにおいてワールドカップ本大会で唯一となるゴールを記録した。その後エルサルバドルを2-0で下し、第2ラウンドのグループステージへと進出した。
ここから大会は白熱し、アルゼンチンはイタリア、ブラジルと同組になる究極の「死の組」に入った。これはアルディレスとチームメイトにとって厳しい試練となった。イタリアに1-2、宿敵ブラジルに1-3(この試合でマラドーナは退場処分となった)で両試合とも敗れ、大会から姿を消した。4年前のブエノスアイレスでの栄光の光景とはかけ離れた結末だった。
オジーは我々スパーズで311試合に出場し、1981年のFAカップで優勝して有名な「Ossie’s Dream」を叶えた。1982年のFAカップはフォークランド紛争のため欠場したが、その後復帰し、1984年のUEFAカップ獲得に貢献した。1993年6月から1994年11月まで指揮を執り、現在はクラブアンバサダーとして相変わらずの人気を博している。
グレン・ホドル(イングランド)
毎週彼のプレーを見ていたスパーズのファンは、彼の中盤での魔法のような才能を熟知していた。しかし、グレン・ホドルがイングランド代表で不動のファーストチョイスと見なされることはなかった。
彼のワールドカップ初出場は1982年のスペイン大会だった。イングランドがフランスを3-1で破った初戦(ブライアン・ロブソンの開始27秒での先制ゴールがあった)には起用されず、第2戦のチェコスロバキア戦でもベンチスタートとなった。しかし、ロン・グリーンウッド率いるスリーライオンズが屈強なチェコを崩すのに苦労していたため、ハーフタイムにホドルの技術と創造性が投入された。

この采配は機能した。イングランドは立て続けに2ゴールを奪って第2ラウンド進出を決め、ホドルはその活躍が報われて最終戦のクウェート戦(1-0で勝利)で先発ラインナップに名を連ねた。
残念ながら、第2ステージのグループリーグ2試合でグレンは再びベンチ要員となった。イングランドはスペイン、西ドイツを相手にいずれもスコアレスドローに終わり、攻撃の火付け役を欠く中、ホドルは出番を与えられないままイングランドの敗退が決まった。
スパーズの歴代最高の選手の1人であるグレンは、アカデミーから昇格し、1975年にデビューを果たした。その後12年間にわたりホワイトハート・レーンを沸かせ、すべてのコンペティションで490試合に出場した。このマエストロは1981年と1982年のFAカップで優勝し(両方の決勝でゴールを記録)、1984年にはUEFAカップのタイトルを獲得した。1987年、並外れた数々のハイライトを残してモナコへ移籍した。2001年から2003年にかけては、指揮官として復帰している。

記事解説
1982年大会は、スパーズの3選手がそれぞれ異なる役割で存在感を示した大会だった。アーチボルドは得点という形で結果を残し、アルディレスは“死の組”で奮闘し、ホドルは途中出場から試合を変える力を見せた。
特にアルディレスのグループ突破とハンガリー戦でのゴールは、1978年優勝メンバーとしての経験値を示す象徴的な場面だった。一方でホドルは代表での評価が揺れ動き、クラブでの輝きとは対照的な扱いを受けたことが印象的である。
クラブ公式が1982年大会を取り上げた背景には、2026年大会を前にスパーズの“W杯で輝いた選手たち”を再確認する意図があると考えられる。3人の歩みは、クラブの国際舞台での存在感を物語る重要な歴史の一部だ。
投稿元:Spurs at the World Cup | 1982(Tottenham Hotspur Official)

